昭和54年07月25日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
段々この御理解を頂きますと、真の道というものがはっきりしてまいります。これが真の道だと、人に丁寧に話をして行くのが真の道だと。真の道を踏んで行く事になるのであり、神様から頂いた教えを違わぬようにという事は、やはり自分がおかげを以て実証してという事じゃないでしょうかね。それを実証して人に伝えて行くのが、神へのお礼であるだけけでなくて、それが神になるぞのその神になるぞの、一つの手立てだとも教えておられる訳ですよね。
一番難しい分からないのは、神になれても神より上になるとは思うなと言う様なね、なかなか難しい表現をなさっておられますですね。私は以前ここんところをを頂いた時に、神様を使用人の様に使うばぁっかりの氏子がある。これはある意味で神より上になっとる様なものじゃなかろうか。神様を使用人の様に思うておるね。どうぞここに集金をよろしくお願いしますだけだったら、まるっきり神様を集金人のごと思うとる。そういう意味でなく本当に間違いますと、神より上になっておる様な事になっております。
又神様をないがしろにする、神も仏もあるもんかと言った様な、私は信心のない方達の場合は、まぁこれ以上の御無礼はないと思うです。神をないがしろにしておる。勿論そこには生き生きと神の働きも受ける事はでけません。そういう氏子に対してでもです、私共はなら信心はせんでもおかげはやってると言う。おかげは頂いとっても特別にそんならお徳を受ける、特別なおかげというのは私はお徳を受けるという事だと思うですね。はやはりじゃ真の道を踏んで行く。
いわゆる金光大神の教えを頂いてそれを踏み行うて、そしてそのうおかげを実証して有り難いという、信心生活に入る事だと言う風にまぁ思うんです。昨日研修の時に、昨日の御理解の中に久留米の初代の石橋先生の話をしましたですねぇ。三代金光様が石橋先生の事を評して、久留米の石橋さんこそ真の人ですなぁと教えられたと言う事が残っております。金光様をして真の人と言わしめる内容を持っておられたという訳なんです。
昨日の研修の時にです、もし例えば私の事をです、誰かが合楽の大坪さんはどんなともし尋ねられたら、桂先生が久留米の自分の弟子さんの事を何人もうこう名を上げて、こういろいろお伺いになられた時に、金光様が石橋先生の事をそう仰ったというのですから、なら桂先生がもしなら合楽の大坪はどうでございましょうかと、いうでお伺いなされたら、金光様は何と言うて御返事なさるだろうか。まぁ大坪さんという人はキザな人ですなぁと言われるかも知れません。
だらしのない人ですなぁあと言われるかも知れん。私はそんなふうに思うとる。皆んなどげなふうに思うと私は研修生の方達皆んなそう言うて尋ねましたら、西岡先生がこんな事を言われました。「おじい様の再来ですなぁ」と仰るだろうと言うんです。三代金光様のおじい様が教祖様、教祖様の再来だろうと言われるだろうと言うて、もう本当に皆んなが大笑いに笑うた事でございますけれどもね。私はそれを聞いてからふっとそのう思うた事があった。
私は金光様にはだらしのない男だなぁ、金光様にはまぁキザな男と言われたり思割れたりするかも知れないけれども、天地金乃神様からは是は最高に取り扱われているのではなかろうかと言う風に私は感じました。というのは例えばここで私が必要なものなら必要な物が、何処からか集まるとはなしに集まって来る。もうならここに沢山ないろんなまぁ美術品と申しましょうかね、骨董品というてもよいでしょうか。成程以前私がそんな道楽をしてましたから好きです。好きだけれども自分で求めようとは更々思わない。
けれどもそういう物がどこからか集まって来るやら分からんようにして集まって来る。第一びっくりする事は、金光様がお書きになった物が、大きな額が何枚も、それから軸が次々と、色紙このごろからあのう短冊などがね集まってくる。いわゆる金光様からは嫌われるという訳じゃないけれども、書いて下さいというてお願いした事もないけれども、私が求めておるものは、そりゃ金光様がお書きになった物やらを、部屋にでも掛けたいというような物は私は思いますよね。
欲しいけれども勿体のうして書いて下さいとは言えない訳。けれどもねそれがどこから集まってくるとは知れんようにして、集まってくるという事実はです、これは天地金乃神様のいうならば、ある意味での御信頼を頂いておるからだろうと言う様な事を思いました。そして今日私ここを頂いて、まぁ一番難しいところ、「神より上になるとは思うな」と。例えば冗談にでもです、合楽の大坪さんは、三代金光様をして、もし言わせるなら、おじい様の再来ですなとおおせられるだろうという。
まぁ笑い話のような話ですけれども、私はそれに続いてなら連想させて頂いた事はです、合楽は言うならば何時も天地がバックというふうに申します。こんなに心強い事はない。天地の御神様がいつもバックなんと。お商売さして頂くのに○○銀行があっちのバックという事になったら、どんな商売でもでけるようなもんでです、天地の親神様が合楽の場合バックだと言った様いつも感じとりますし、又有り難いと思うとりますけれども、確かに信心の内容の中にはね。
非常にこのもうその生き方というものが、まぁ仁徳とか人徳とかという、そういう意味で素晴らしいので、お徳を受けられる生き方とです、私の様にいうならばまぁ性格的にキザなものがあったり、だらしがなかったりする者の上に神様が働きなさるおかげの現れてくるお徳というのは、何かその辺に大変何かがあるなというものを感じます。それも何か大変なものを感じます。合楽が誕生したと言う事は、教祖金光大神の御教えのその内容を深めて行けば、行く程に宗教以前の宗教だと言った様な事を合楽で発表した。
金光教信心こそ十全の教えであるという、その訳がらをこういう訳だから十全といえるだろうが、○○教○○宗というのはこういう意味からいうても、十全ではない事がを分かるであろうがと言う風に、まぁ説き明かしておる訳です。けれども私は本当に思うのにね、人間には瘡げと慢心げのない者は無いと言われる位に、こうおだてられますと本当に自分が大将になったごたる心が起こるもんですけれども。私そんな事を思わせて頂いとりましたら、合楽の場合はね間違っていないという実証が何時の場合でもある。
だからこの実証を見失なわない限り合楽は限りなく進んでいけるなぁ、上がっていけるなぁと言った様なもの思います。そこで合楽の教えを皆さんが身につけて、その合楽のいわゆる理念の実験実証をさせて頂いて、合楽理念を実行しとるけれども、実証が現れなくなった時こそ、はっと自分にかえって考えて見なければならん時だと言う風に思うんです、合楽の場合は何時の場合でもだから、何時も申しますますように五と五をたしたら十になる、果してこの十という答えは間違いないかなぁというて、なら十から五をひいてみるそうするとそこにはっきりした答えが出てくる。
掛けたら掛けたで割ったら割ったで、掛けもどし割もどしをさして頂くと正確な答えが出るように、そういう言うなら慎重な生き方をもって、進んでいかなければ本当に人間というものは、いうなら神より上になるような、それこそ神をまぁ使用人のように思うたりするような事にもなりかねないというふうに思います。昔の御理解の中に、ある浜辺に年寄りの漁師が住んでおった。或る日船を出したそした、漁に出たけれどもその日に限って魚がない。
帰ろうと思うたけれども、今度一綱と思うて綱を打った。その網にかかって来た魚があった。船の上に引き上げておるとその魚が人間のものをいう不思議な魚である。おじいさん助けて下さいと、助けて下さったらおじいさんの願いを何でも聞いて上げますというね。それでおじさんふっと思った事は、お婆さんがいつも使う水瓶が割れておるからその水瓶を頂きたいというたら、そしたらその魚がね「おじいさん帰ってごらんなさい、お婆さんの前に必ず水瓶がありますよと言うた。
帰ってみたら綺麗な水瓶の前にお婆さんが座っておった。そしたらお婆さんが言うた。水瓶なんかどうでもよいですよ。こんな小さな小屋のような家だから、それこそ立派なお家を下さいとなぜ言わなかったのと言うた。明くる日又漁に出た。ところが又その魚がやってまいりました。「昨日は水瓶があったでしょう」あったそしたらお婆さんがこんなに言うた「それはわけないですよ、帰ってごらんなさい立派な家が建ってますよ」と言うた。帰ってみたら立派なお家があった。
それから又お婆さんが言うた。「お家だはではどうしますか、お金がなければ」と言うた。又次の日もそれを言うたら、それこそ大判小判がざくざくする程に家の中に集まっておった。又お婆さんが言うた。「これだけの物があっても使用人がいなくてはいけません。召使やら女中やらを」と言うた。おじいさんが帰って来た。そしてたら大勢の召使に仕えられながら、お婆さんが女王のようにして居ったとこう言う、その都度々にですおじいさんが感じた事なんです。
始めに帰ってさあ水瓶が本当にあるだろうかと思うて帰った。水瓶があった不思議な事ではある。次には家を願ったりお金を願ったり又は召使を願った。その都度々にいうなら今まで鏡のように波一つなかった海です、さざ波が立ってきた。その次には沖の方に何とはなしにその海鳴りが聞こえるような感じがした。その次にはもういよいよ波が荒れておった。そして今度は一番最後にその魚がそういう力、そういう不思議なものを、働きを持っておるならばその魚をです、家の召使になってくれと頼んで下さいと、最後にお婆さんがいうたと言う事なんです。
一番最後に魚に言うた。そしたらその時の魚が返事をしなかった。それこそ自分の尻尾で船べりをパチッと叩きながら海の中に消えて行ったというのです。その時にはもう海が音を立てて荒波に変わっていく情景であった。帰ってみた。ところがお婆さんが昔の小屋のようなお家で割れた瓶の前でしょんぼり座っている姿しかなかったというお話です。私共が調子に乗りに乗ってです、いうならば神様を使うようなあり方にならせてここまでは神様が許される。
けれどもこれ以上は許されないといのが、神より上になる神を召使のように思うておるという事じゃていでしょうか。お参りをするどうぞ今日は何処々に集金に行きますから、今日はどうしますからと言うて、もうそれこそ神様に労働をして貰うような、召使になってもらうような願い、これはまぁまねぁ何にも分からない中だから神様も大目に見て下さるかもしれませんけれども、段々お道の信心がどういうものであるという事がわからせて頂いたらね。
その神様の御用人としての信心、その神様の手にも足にもならせて頂こうという信心に縋って行かねばならないという事、金光教ではその御用という事を大変大切に致します。神様を使うだけじゃなくて、神様から使われようという信心から、あいよかけよの信心も生まれてまいります。真の道を踏んで行くのですから、真の道がそれに伴のうてまいります。それを人に実意をもって丁寧に伝えて行くのが、神にもなるのぞと仰るように、その人の信心神格と言うか、それは限りなく進んで行く事でしょう。
合楽の信心に於いてもそう。けれども私共が何時も思わなければならない事、果たしてこんなにもおかげ頂いてよかろうかと、勿体ない程しだとそういう時にはよく反省してみる。いうなら引いたら足してみる、足したら言うならば引いてみると、引いたら足してみると言う様な信心をいよいよ慎重にして行かなければならないと私は思うのです。そして目指すところは「生神とはここに神が生まれるとい事であって」とおおせられるように、自分の心の中に自分で自分が拝めるような心を。
いよいよ大きくしかも、」それが育って行くおかげにならなければなりません。そしておかげもやはりそれに伴うて、おかげを受けて行かなっければなりません。願うおかげというものは、いうなら神様の私にかけられる願いというものを、うすうす感じれは感じるほど、大きい願いというものは雲のように湧いてくる。だからそれが実現して行く過程に於いてです、私共は慎直に引いたり足したり,掛けたり割ったりが必要じゃないでしょうかね。
どうぞ。